個人ブログ自選その64
2024年11月26日投稿分より
どうせ死んじゃうのになんでわざわざこんなことやってるんだろう、などと考えることが時々ある。そうなるともうエロゲーでさえ楽しめなくなる。
ヴィパッサナーと慈悲の瞑想をしばらく続けているものの、心は一向に落ち着かない。もしかしたら何か大事なことを見落としているのかもしれない。疑心は募るばかりだった。
加藤諦三氏の「自分を活かす心理学」に出会ったのはそんなときだった。僕が軽蔑していたのは自分自身だった。そしてそれを他人に移し替えていた。そのことにようやく気付くことができた。
30歳を過ぎたころから、どうにも他人の容姿が気になるようになった。醜い人を見れば心の中で蔑んで安堵し、優れた人を見れば気圧されて脅威する。そのたびに自分はなんて性格が悪いのだろうと自己嫌悪にも陥った。
正直に言うと、僕は自分の容姿に少なからず自信を持っていた。と、過去形で書いてはみたけどきっと今でも多少は持っているに違いない。ただ前ほど意識に上がらなくなっただけで。
実際、20代半ばまでは引くほどよくモテた。幸か不幸か、この経験が僕に前述の「大いなる勘違い」をもたらすことになった。一方的にチヤホヤされるものだから、中身を磨く努力ってものを一切してこなかった。
20代後半になってがらりと状況が一変した。というより貯金を使い果たしただけのこと。だけどどうにもその現実が受け入れられなくて、もう一度チヤホヤされたいと願った。
そのためには何か特別なものを持っていないといけない。そう考えた当時の僕がたどり着いたものこそ哲学であり、形而上学であり、精神世界であり、原始仏教だった。本当にもう、思考が貧困すぎて泣きたくなる。
動機が不純である以上どれだけ読んでも一切身になることはなく、そのくせプライドだけはますます強化され一層孤立を深めていった。なんて過去形で書いてはみたけど、これもいまだ継続中に違いない。ただ当時よりはだいぶ薄まっただけで。
自分の価値を決めるのはあくまで自分。他人じゃない。それがてんで分からずに他人の評価という幻をずっとずっと求め続けていた。
喉の渇きを潤そうと塩水を飲み続ける人を見たらアホだなぁと思うくせに、自分が同じことをやっていることには全く気付いてなかった。アホなのは断然僕の方だった。
あるべき自分を演じるのはもうたくさん。気弱で、嫉妬深くて、褒められたがりで、自己中で、猫かぶりで、スケベエで。そんな無様な自分をちゃんと受け入れ活かしつつ、包み隠さず出していくしかない。
これまで積み上げてきたものを今度は一つずつ取り壊していく。そして最後は生まれた時と同じように素っ裸になる。なんだ、人生ってただの賽の河原だったんじゃん。そんなふうに呆れ笑いを浮かべたりなんかして。
嫌われることを嫌わずに、好かれることを求めずに。

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